二十四孝に会いに行く!

中国の親孝行な人たち・二十四孝に関するものを紹介していきます。

番外編  加藤景廉(かとうかげかど)  ※7/15追記あり

★★ 番外編では二十四孝以外の彫刻で、何かあったら書いておきます ★★

この春、地元の某神社の本殿を見る機会に恵まれました。覆屋ですっぽり覆われていて外からは見られない本殿です。その日覆屋の中に入ると、脇障子に武将の彫刻がありました。

武将が二人。これは誰と誰?

「絵本写宝袋」を確認したら、第三巻「伊豆の院宣」によく似た挿絵がありました。左の一段高いところにいるのが源頼朝、長刀を受け取っているのが加藤景廉です。彫刻の左の武将は鎌倉殿でございましたか~。

画像はARC古典籍ポータルデータベースより

<伊豆の院宣

頼朝は院宣を蒙り北条時政をかたらひ先づ伊豆の目代泉判官兼高を
夜討にせんと北条承り打勝候はば火をあぐべし 若し利あらずは使を
参らせんと申して向ひけり されどもやうがいよく北条もせめあぐんで
ひかへけり

加藤次郎景廉は頼朝の御勘気を蒙り此度もやうしにもれけれとも
心(むな)騒ぎしければ何事かあるやらんと紫威の腹巻太刀を帯(おび)
佐殿へはせ参る 頼朝は小具足に小長刀つき縁につゝ立(たち)給しが
景廉を見て仰せには今夜いづみの判官を討たんと北条佐々木を
つかはしぬ 打ちかちたらば館に火をかくべしと云つるがいまだけふり
も見へず覚束なしとのたまふ 景廉承り夜討はそれがしこそとて言葉を
散らしかけおるを 景廉しばしとて火おどしの鎧 白星の甲(かぶと)をたび夜討には
太刀より柄の長き物よかるべしと つきたまふ小長刀をそ給はりけり
景廉いそぎ向ひ北条に対面す 時政見て御へんは御勘当の身なりといへば
景廉さればにわかに召れて兼隆が首つらぬいてまいらせよと此長刀を
給はりしとてみせけり 北条さしもあぐみし城中に事なくせめ入り
櫓に火をかけついに兼隆をうちとりけると也
其後土肥土屋岡崎三百余騎にて石橋山に籠り又安房上総へ渡り千葉介
味方して終に平家をうちほろぼし給ふ

ーーー

景廉は頼朝から「火おどしの鎧」「白星の甲(かぶと)」そして夜討ちに便利な「小長刀」を賜って、伊豆の山木館を襲撃し、見事兼高(兼隆)を討ち取った、というわけですね。

吾妻鏡」治承四年八月十七日の章には「(頼朝は)手自ら(てづから)長刀を取りて景廉に賜はり、兼隆の首を討ちて持参す可きの旨仰含めらると云々」と書かれています。

月岡芳年 「月百姿」より「山木館の月 景廉」 景廉は長刀の先に兜を掛けて兼隆の待ち構える部屋の障子の隙間から差し入れ、兼隆を引き寄せています。
 

さて先日「保元物語」を読んでいたところ、ラストから5ページ目で「加藤次(景廉)」が登場しました。保元の乱のあと、遠流先の伊豆大島で我が物顔で暮らす源為朝討伐のために結成された、武蔵・相模の連合軍の一人です。

為朝は軍勢が島に上陸する前にひっそりと覚悟の自決をします。ややあって、その亡骸の首を景廉が掻いて功名を上げます。(当時14歳。若いねー)

「ここに加藤次景廉、(為朝が)自害したりと見おふせてやありけん、長刀をもて後よりねらひよりて、御曹司(為朝)の首をぞうちおとしける」(保元物語のラスト部分)

景廉は頼朝から賜った長刀で、頼朝の叔父さんである為朝の首を掻いた、ということになりますね。また源平盛衰記・八牧夜討事によれば、この長刀はもともと頼朝の父、義朝のものだったとか。為朝からすれば保元の乱で戦った、兄の長刀ということになりますね。深いわー、保元物語・・・。

※7/15追記※

時系列を調べたところ、源為朝の没年は嘉応2年(1170年)、頼朝が院宣を受けて山木館を襲撃したのは1180年。なので伊豆大島で使った長刀は頼朝にもらったものではなく自前だったということになりますね。

でもそれだとしたらわざわざ保元物語の最後で加藤景廉が「長刀で」為朝の首を掻いたって書く必要性あるのかな。「太刀で」で良さそうだけど。普段から長刀が得意だったのかしらね。

※追記終わり~ちゃんと調べてから書きましょう自分※

 

このとき連合軍のメンバーとして景廉と共に伊豆大島に渡った仁田忠常(新田四郎)は、のちに謀反の疑いで景廉に殺害されてしまいます。忠常といえば富士の巻狩りでの猪退治。この彫刻は猪に乗る忠常。

                         埼玉県越谷市の大沢香取神社

「鎌倉殿の13人」では、忠常(ティモンディの高岸さん)の最後のシーンはあるのかな。景廉は忠常を長刀で斬るのかな。

 

某神社の彫刻を調べて加藤景廉という人が急に身近になりました。某神社はなぜ脇障子に「伊豆の院宣」を題材として選んだんだろう。とくに源氏ゆかりの地というわけでもないのに。某神社の横を通るたび、トタン板の向こうの景廉の彫刻が目に浮かびます。多分ほとんどの地域住民はご存じない。地元の氏神様の本殿彫刻のことを。