2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧
舜は古しへの聖王なり。卑賤に在(おは)せしとき父母ともに悪(にく)み、弟の象(しょう)を愛す。 舜は聊(いささ)かもこれを恨みず孝をつくして怠らず。 されど終に家を追はれて歴山に耕たまふに天地その孝を感じたまふにや象(ぞう)来たって田をすき…
文帝は前漢四代目の帝にて高祖第二の太子なり。御母君を薄(はく)太后と申しけるが文帝これ孝を尽くしたまひ、日々三度の食も自らこころみてこれをすすめたまふことおこたりなし。母君三年が間病に悩みたまふ。その久しき間なりといへども文帝孝心篤くまし…
孟宗は晋(しん)の世、呉の国、江夏(こうか)といふところの人なり。をさなきとき李粛(りしゅく)といへる人に従ひ学問を修行し父に早く別れ、一人の母を養ひて孝心深く晋の武王に仕えて奉行の官たり。その母老病に冒され食の味わひも三度に変はりけるほ…
丁蘭は後漢の世の人なり。幼きとき二親に離れ孝を持って養ひ仕ふることなきを嘆き、母は胎内の苦しみあり、父には養育の重き恩あり。我、この恩を報ぜざらんやとて父母の姿を木もて作りなし朝夕生ける人に仕ふるごとく孝行を尽くしけるに、あるとき丁蘭が妻…
郭巨は後漢の世、河内というところの人なり。家貧しくして老ひたる母と二才になる子あり。老母、その孫を常に愛して我が食を分け孫に与へけるほどに大孝行の郭巨なればこのことを深く悲しみ妻に向かひて言ひけるよう、我貧しうして母の食みつるほど進むるこ…
蔡順 は後漢末の汝南の人なり。幼くして父に離れ母に仕へて孝行大方ならず。この頃王莽(おうもう)といへるもの謀反して天下大いに乱れ田畑実らず飢饉に及び糧尽きける故、蔡順桑の実を取るに器物を二つにして分かち入れる。 このときまた赤眉(せきび)の…
董永は後漢の人なり。幼きとき母に別れ一人の父に仕へて孝なり。家極めて貧しければその身人に雇はれ、いささかの賃銭を取りて父に孝行を尽くしけるが、父死して葬ることあたはず、董永はこれを嘆きある。富たる人に銭千貫文を借りて葬りらんとす。かの者申…
楊香は晋の代魯国の人。楊ホウトが娘なり。年十四の時、田園に出でて粟を取らんとせし時晴天に風起こり大木の枝どうどうとして二匹の虎現れ出で、父の楊ホウを目掛けて飛びかからんとて、すでに食わんとする気色なれば楊香はいまだ幼く、ことに女子の身なれ…
閔損は周の世の人。孔子の御弟子にて字を子騫(しけん)といふ。十哲の一人なり。母は早く世を去りその父、後の妻を迎へけるに後の妻二人の子を持ちて継子の閔子騫をいたく憎みければ閔子騫は孝心深くこれを露ばかりも恨み事せず継母に仕へしが、継母冬の衣…
曽參は周の世、孔子の弟子にして常に孝心篤き故聖人も孝経を説きしめたまふ。あるとき曽參山へ薪を取りに行きける留守に親しき人来たりしかど、もとより貧しければもてなすこともならず。曽參早く帰れかしとて母、指を噛みければ、その痛み曾子に通じてや曾…
黄香は後漢の世の*安陸(あんりゅう)といふところの人なり。九つの時母に後れ父に仕へて孝心深し。夏の暑さ強きときは父の床の内を扇ぎ涼しくして眠らせ、冬の寒き夜は我が身まず父の床へ入りて先へ寝(い)ね、その身のぬくもりをもって床の内を暖め伏さ…
仲由は周の世、孔子の御弟子、子路のことなり。母に仕へて孝心篤く家貧しくして人に雇はれ米を百里の外に負ひ行き、その賃銭を持って母を養ひける。孝子の恵みにや、母死してのち祖国に仕へ富貴を得て褥(座るときや寝るときに下に敷くもの)を重ね、*鼎(…
――― 〈『漢土二十四孝伝』より〉 王ほうは晋の世、營陵(えいりょう)の人なり。父は王儀とて文帝に仕へしに罪なくして命を取られ王ほう、これを恨み一期の間、都の方へ向ひて坐せず。常に父の墓に詣でて悲しみ嘆く涙に傍らの草も枯れたりとぞ。 母親この世…
えん子は周の世、かい国の人なり。生まれえて孝心深く二親年老ひて両眼を患ひ鹿の乳を薬にせんと求めければ、えん子孝心篤きもの故自ら工夫を凝らし鹿の皮を身にまとひて鹿多き山に入りて乳を求む。狩人これを見て弓に矢をつがへ既に射んとせしを、えん子驚…
呉猛は晋の世、濮陽(ぼくよう)の人なり。幼き時より孝行の聞こへあり。年八歳のとき、夏にいたれども家貧しうして蚊帳もなく、よろづ心に任せざれば我が衣を親に着せ我は赤裸になりて、その傍らに伏し蚊に飽かしめて更に払はず。払へば親の方へ蚊の行かん…
黄庭堅(こう・ていけん)は宋の世の人。山谷老人と号す。若き時東坡(とうば)が門弟になり、{か }に達し官高く平生親に仕へて{もは }孝深し。其の身高き位に上り妻もあり数多の召使もあれども常に母の大小便の器は人の手を借らず自らその汚れたるを洗ひ、…
ゆ黔婁は南斉の人にて父に仕へて孝行なり。あるとき父大病に冒されて医師も{ほとほと}{困}じたれば、その{ }ゆ黔婁は病の善悪を{医師}に問ひけるに医師答えて曰く、病人の糞を舐めて知るべしと{なり ただし}苦きは良く、甘きは病癒ゆべからずと云…
壽昌は宋の世の人。母は七才の時父に離別せられて他へゆきたりしが壽昌成長して神宗帝に仕へけれども生みの母を知らずして一日も孝養をなさざるは不孝なりと嘆き、常々これを心よからずおもひたりしが、あまりの懐かしさに貫禄を捨てて、そことも知らぬ母を…
陸績 は後漢の人なり。その年六才の時袁術といふ人に見みゆ。袁術、陸績のもてなしに橘の実をいだしたり。陸績は橘2つを懐にしてかへる時、礼をなすとて取り落としけtればえんじゅ(つ)は見咎め幼きとて非礼なりと云ふ。 そのとき陸績ひざまづき謹んで申…
江革は後漢の世の人なり。幼くして父に離れ家貧しふして母に仕へ孝をなすを{ふし}(「をりふし(折節)」の「り」が消えたのでしょうか?)戦国なれば母を車に乗せて脇の国へ逃げゆくところに盗人江革を見て連れ行かんとす。江革悲しみて云ふ様、我ここに…
王祥は晋の世の人なり。継母朱氏に仕へて孝なり。継母は心きたなく王祥を憎みて我が産みの子王覧をのみ愛しけれども王祥は孝行の志を崩さず。あるとき冬の日に生魚を食せんことを望む。王祥池に行きてみるに氷閉ぢて魚を求むるにたよりなし。されども王祥は…