二十四孝に会いに行く!

中国の親孝行な人たち・二十四孝に関するものを紹介していきます。

2016-01-01から1年間の記事一覧

京都・御香宮神社、表門の彫刻

京都市伏見区の御香宮神社へ二十四孝の彫刻を見に行きました。 表門の上部の蟇股に4つの彫刻が並んでいました。左から孟宗、唐夫人、郭巨、楊香ですね。 今回画像を追加したのは「孟宗」「唐夫人」「郭巨」「楊香」の4件です。

三嶋大社・舞殿の彫刻

三嶋大社舞殿の四面に二十四孝の彫刻が施されているので見に行きました。ピンぼけの写真が多く、全部画像を載せられなくて残念です。また行く機会があれば今度は見やすい写真を撮ってこようと思います。 東西南北の四面の彫刻は上下3話ずつの2段になってい…

大舜と唐夫人(諏訪神社・千葉市花見川区長作)

今日は不安定な空模様の下、千葉市花見川区長作町(ながさくちょう)にある諏訪神社へ、二十四孝の彫刻を見に行きました。 JR幕張駅から千葉シーサイドバスを利用します。幕張駅はバス乗り場までちょっと距離があったので予定のバスに乗り遅れてしまい、30分…

漢土二十四孝伝・1 大舜(たいしゅん)

舜は古しへの聖王なり。卑賤に在(おは)せしとき父母ともに悪(にく)み、弟の象(しょう)を愛す。 舜は聊(いささ)かもこれを恨みず孝をつくして怠らず。 されど終に家を追はれて歴山に耕たまふに天地その孝を感じたまふにや象(ぞう)来たって田をすき…

漢土二十四孝伝・2 漢文帝(かんのぶんてい)

文帝は前漢四代目の帝にて高祖第二の太子なり。御母君を薄(はく)太后と申しけるが文帝これ孝を尽くしたまひ、日々三度の食も自らこころみてこれをすすめたまふことおこたりなし。母君三年が間病に悩みたまふ。その久しき間なりといへども文帝孝心篤くまし…

漢土二十四孝伝・3 孟宗(もうそう)

孟宗は晋(しん)の世、呉の国、江夏(こうか)といふところの人なり。をさなきとき李粛(りしゅく)といへる人に従ひ学問を修行し父に早く別れ、一人の母を養ひて孝心深く晋の武王に仕えて奉行の官たり。その母老病に冒され食の味わひも三度に変はりけるほ…

漢土二十四孝伝・4 丁蘭(ていらん)

丁蘭は後漢の世の人なり。幼きとき二親に離れ孝を持って養ひ仕ふることなきを嘆き、母は胎内の苦しみあり、父には養育の重き恩あり。我、この恩を報ぜざらんやとて父母の姿を木もて作りなし朝夕生ける人に仕ふるごとく孝行を尽くしけるに、あるとき丁蘭が妻…

漢土二十四孝伝・5 郭巨(かくきょ)

郭巨は後漢の世、河内というところの人なり。家貧しくして老ひたる母と二才になる子あり。老母、その孫を常に愛して我が食を分け孫に与へけるほどに大孝行の郭巨なればこのことを深く悲しみ妻に向かひて言ひけるよう、我貧しうして母の食みつるほど進むるこ…

漢土二十四孝伝・6 蔡順(さいじゅん)

蔡順 は後漢末の汝南の人なり。幼くして父に離れ母に仕へて孝行大方ならず。この頃王莽(おうもう)といへるもの謀反して天下大いに乱れ田畑実らず飢饉に及び糧尽きける故、蔡順桑の実を取るに器物を二つにして分かち入れる。 このときまた赤眉(せきび)の…

漢土二十四孝伝・7 董永(とうえい)

董永は後漢の人なり。幼きとき母に別れ一人の父に仕へて孝なり。家極めて貧しければその身人に雇はれ、いささかの賃銭を取りて父に孝行を尽くしけるが、父死して葬ることあたはず、董永はこれを嘆きある。富たる人に銭千貫文を借りて葬りらんとす。かの者申…

漢土二十四孝伝・8 楊香(ようきょう)

楊香は晋の代魯国の人。楊ホウトが娘なり。年十四の時、田園に出でて粟を取らんとせし時晴天に風起こり大木の枝どうどうとして二匹の虎現れ出で、父の楊ホウを目掛けて飛びかからんとて、すでに食わんとする気色なれば楊香はいまだ幼く、ことに女子の身なれ…

漢土二十四孝伝・9 閔損(びんそん)

閔損は周の世の人。孔子の御弟子にて字を子騫(しけん)といふ。十哲の一人なり。母は早く世を去りその父、後の妻を迎へけるに後の妻二人の子を持ちて継子の閔子騫をいたく憎みければ閔子騫は孝心深くこれを露ばかりも恨み事せず継母に仕へしが、継母冬の衣…

漢土二十四孝伝・10 曽參(そうしん)

曽參は周の世、孔子の弟子にして常に孝心篤き故聖人も孝経を説きしめたまふ。あるとき曽參山へ薪を取りに行きける留守に親しき人来たりしかど、もとより貧しければもてなすこともならず。曽參早く帰れかしとて母、指を噛みければ、その痛み曾子に通じてや曾…

漢土二十四孝伝・11 黄香(こうきょう)

黄香は後漢の世の*安陸(あんりゅう)といふところの人なり。九つの時母に後れ父に仕へて孝心深し。夏の暑さ強きときは父の床の内を扇ぎ涼しくして眠らせ、冬の寒き夜は我が身まず父の床へ入りて先へ寝(い)ね、その身のぬくもりをもって床の内を暖め伏さ…

漢土二十四孝伝・12 仲由(ちゅうゆう)

仲由は周の世、孔子の御弟子、子路のことなり。母に仕へて孝心篤く家貧しくして人に雇はれ米を百里の外に負ひ行き、その賃銭を持って母を養ひける。孝子の恵みにや、母死してのち祖国に仕へ富貴を得て褥(座るときや寝るときに下に敷くもの)を重ね、*鼎(…

漢土二十四孝伝・13 王ほう(おうほう)

――― 〈『漢土二十四孝伝』より〉 王ほうは晋の世、營陵(えいりょう)の人なり。父は王儀とて文帝に仕へしに罪なくして命を取られ王ほう、これを恨み一期の間、都の方へ向ひて坐せず。常に父の墓に詣でて悲しみ嘆く涙に傍らの草も枯れたりとぞ。 母親この世…

漢土二十四孝伝・14 えん子(えんし、ぜんし)

えん子は周の世、かい国の人なり。生まれえて孝心深く二親年老ひて両眼を患ひ鹿の乳を薬にせんと求めければ、えん子孝心篤きもの故自ら工夫を凝らし鹿の皮を身にまとひて鹿多き山に入りて乳を求む。狩人これを見て弓に矢をつがへ既に射んとせしを、えん子驚…

漢土二十四孝伝・15 呉猛(ごもう)

呉猛は晋の世、濮陽(ぼくよう)の人なり。幼き時より孝行の聞こへあり。年八歳のとき、夏にいたれども家貧しうして蚊帳もなく、よろづ心に任せざれば我が衣を親に着せ我は赤裸になりて、その傍らに伏し蚊に飽かしめて更に払はず。払へば親の方へ蚊の行かん…

漢土二十四孝伝・16 黄山谷(こう さんこく)

黄庭堅(こう・ていけん)は宋の世の人。山谷老人と号す。若き時東坡(とうば)が門弟になり、{か }に達し官高く平生親に仕へて{もは }孝深し。其の身高き位に上り妻もあり数多の召使もあれども常に母の大小便の器は人の手を借らず自らその汚れたるを洗ひ、…

漢土二十四孝伝・17 ゆ黔婁(ゆきんる)

ゆ黔婁は南斉の人にて父に仕へて孝行なり。あるとき父大病に冒されて医師も{ほとほと}{困}じたれば、その{ }ゆ黔婁は病の善悪を{医師}に問ひけるに医師答えて曰く、病人の糞を舐めて知るべしと{なり ただし}苦きは良く、甘きは病癒ゆべからずと云…

漢土二十四孝伝・18 朱壽昌(しゅ じゅしょう)

壽昌は宋の世の人。母は七才の時父に離別せられて他へゆきたりしが壽昌成長して神宗帝に仕へけれども生みの母を知らずして一日も孝養をなさざるは不孝なりと嘆き、常々これを心よからずおもひたりしが、あまりの懐かしさに貫禄を捨てて、そことも知らぬ母を…

漢土二十四孝伝・19 陸績(りくせき)

陸績 は後漢の人なり。その年六才の時袁術といふ人に見みゆ。袁術、陸績のもてなしに橘の実をいだしたり。陸績は橘2つを懐にしてかへる時、礼をなすとて取り落としけtればえんじゅ(つ)は見咎め幼きとて非礼なりと云ふ。 そのとき陸績ひざまづき謹んで申…

漢土二十四孝伝・20 江革(こうかく)

江革は後漢の世の人なり。幼くして父に離れ家貧しふして母に仕へ孝をなすを{ふし}(「をりふし(折節)」の「り」が消えたのでしょうか?)戦国なれば母を車に乗せて脇の国へ逃げゆくところに盗人江革を見て連れ行かんとす。江革悲しみて云ふ様、我ここに…

漢土二十四孝伝・21 王祥(おうしょう)

王祥は晋の世の人なり。継母朱氏に仕へて孝なり。継母は心きたなく王祥を憎みて我が産みの子王覧をのみ愛しけれども王祥は孝行の志を崩さず。あるとき冬の日に生魚を食せんことを望む。王祥池に行きてみるに氷閉ぢて魚を求むるにたよりなし。されども王祥は…

漢土二十四孝伝・22 老らい子(ろうらいし)

老らい子は周の世の人なり。歳七十にして二親を持てり。親に仕ゆるに常の食物も子供の如く{十に及べども}年老ひたると厭はず。 衣服も子供の如く、わけも無き遊び戯れをなして二親を慰め{きうぢ}などにわざと躓き転びて持ちたるものを落とし子供の如くわ…

漢土二十四孝伝・23 姜詩(きょうし)

姜詩は後漢の世、廣漢の人なり。父を失ひて一人の母に仕へ考道至極せり。妻のホウ氏(ほうし)も姑に仕ふるにまめやかなり。その母常に三十町ほど離れたる江湖の水を好めり。妻ホウ氏常に行きてその水を汲み来たる。また母魚なますを好めり。夫婦常に整へて…

漢土二十四孝伝・24 唐夫人(とうふじん)

唐夫人は唐の代、崔カン(さいかん・崔琯?)といへるものの妻なり。姑「ちょう夫人」年老ひて歯一枚もなし。食物も食らうことあたはず。されば嫁の唐夫人これに仕へて至孝なれば、食物の代わりに我が乳を与へて飲ましむること四五年姑食せざれども息災なり…

田眞兄弟(でんしんきょうだい)

田真・田広・田慶この三人は兄弟なり。親に後れて後、親の財宝を三つに分けて取れるが庭前に紫荊樹とて、枝葉栄え花も咲き乱れたる木一本あり。 これをも三つに分けて取るべしとて夜もすがら三人詮議しけるが夜すでに明けければ 木を切らんとて木の下へいた…

張孝兄弟(ちょうこうきょうだい)

張孝張礼は兄弟なり。世間飢饉の時に八十餘りの母を養へり。木の実を拾ひに行きたれば、一人のたへつかれたる者来て張礼を殺して食はんと云へり。張礼云ふ様は、「われ老いたる母をもてり、今日はまだ食事を参らず候程に、暇を賜はれ、母に食を参らせ、やが…

二十四孝の彫刻の写真を撮影した社寺(2)2019年9月~2021年

●真木倉神社(まきくらじんじゃ) 岐阜県美濃市 ●手力雄神社(てぢからおじんじゃ) 岐阜県各務原市那加手力町 ●相州真鶴 貴船神社(そうしゅうまなづる きぶねじんじゃ) 神奈川県足柄下郡真鶴町 ●長命寺 (ちょうめいじ) 東京都練馬区 ●馬頭院(ばとうい…